人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ダークサイドへようこそ

johannes30.exblog.jp
ブログトップ
2012年 11月 17日

ブルックナー

この曲が好きなんて言う言い方に、どうしても違和感があることがある。

「好き」なんていう言葉では、どうしても言い切れないもどかしさ。

高校生の拘りのように、青臭い感情であるのは判っているのだが、

それでもそういうふうに言いたくない曲がある。



ブルックナーにも0番を除けば9曲の交響曲がある。

有名な4番や7番、巨大な8番、最後の9番、

もちろんそれぞれが無くてはならない曲たちなのではあるが、

それでも私には5番が特別なんだ。



こういう例は他にもあって、

ベートーベンでも5番や7番、9番など、

こう書くだけで巨大な木々に囲まれたような気持ちになるが、

何故だか3番が自分には特別。



    。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。




最近手に取るソフトは室内楽や器楽曲が多い。

バッハの器楽曲にのめり込んだり、シューベルトの室内楽をじっくり聴きなおしたりしてる。



その昔は、オーケストラ曲が聴く音楽の90%以上を占めていたのだが、

どういうわけか、最近はそんな曲を聴くことが多い。



何故そうなってきたのかは、はっきりはしない。


たぶん音楽の聴き方が変わってきたせいだろうな。



よく、オーディオが変われば聴く音楽が変わってくるなんて言われる。

確かにそうだろうけど、私の場合だけなのかもしれないが、

実は直接的に係っているようにも思えない。



私のオーディオは、オーケストラを十全に聴くためだけに構築してきたと言っていい。

其のためだけに、努力をしてきたと言ってもいい。



しかし、それが充実してくるにつれて、聴くものの中に室内楽が増えていった。

室内楽「まで」上手く鳴るようになってきたことも一因だが、

オーディオの充実が、私の音楽の聴き方を深くしたためと言う方が本当だろう。






この結果が意図したものではなく、自然発生的にもたらされたものであることが、

私自身としてはなにより嬉しく思う。

オーディオが私を育ててくれたんだ。





自分のシステムを、

巨大になりすぎた自分の影のように感じてしまうことは今までも何度も書いてきたが、

今やその影は、その本体である私自身をもはやはるかに越えたところに存在し、

私を諭してくれるまでになったのかもしれない。





     。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。





ブルックナーの音楽を考える時、

私はチェリビダッケのことをよく思い出す。



現在は、チェリビダッケの演奏する音楽のCDが普通に売られているが、

私にとっては、未だに幻の指揮者というイメージが非常に強い。



私がいつチェリビダッケのことを知ったのか、

もはや思い出せない。

もしかしたら、高校時代に友人からその存在を教えてもらったのかもしれない。

録音というものを拒否した音楽家。

レコードにはチェリビダッケの音楽の何物も存在しないと自分で言い放った音楽家。

それでもどうしてもその音楽が聴きたかった私は、

正規の録音として唯一存在していた古い古いモノラル録音のチャイコフスキーのレコードを探した。

衝撃だった。

完全な音楽というものがここにあると思えた。

それからは、海賊版でしか存在しないチェリビダッケのレコードを探し、

見つけると、躊躇無く買った。

延々と買っていたレコード芸術誌の記事は、隅から隅まで読んで知っていたが、

海外通信などでチェリビダッケの文字を見つけると、

否応無く興奮した。

そんな記事の中にチェリビダッケへのインタビューがあった。




最も好きな作曲家は誰か?

「ブルックナーだ」

しかしあなたのブルックナーの演奏を聴いたことが無いが、

なぜ取り上げないのか?

「ブルックナーを演奏できるオーケストラが無いからだ」







当時、ブルックナーを好んで聴いていた私にとってはかなりショッキングな言葉だった。

今ならこの言葉が、又聞きの、しかも翻訳を経た言葉であることを理解できるのだが、

当時はそんな余裕も無くこの記事を読んだ。

チェリビダッケの指揮するブルックナーなんて、想像するだけで身震いしそうだ。

なんとしても聴いてみたいが、こんなことを言っているくらいだから、

現実的にはほとんど夢物語だな~なんて、しなくてもいい落胆の気持ちで一杯になった。






そんなチェリビダッケが来日し、読売日本交響楽団を指揮することになった。

心底驚いた。

在り得ない事が現実になったと思った。




そのコンサート自体には行けなかったが、

チェリビダッケを招聘する日本のオーケストラがあったことが嬉しく、

それを受けてくれたチェリビダッケにも驚いた。

本当に存在する人物なのだと妙に感心したりもした。



たしかに幻の人物だった。






その後、

ロンドン交響楽団を引き連れて、再び来日した。

しかし、このコンサートにも行かなかった。

チェリビダッケの音楽を聴いてみたい気持ちは大きく、

最後まで相当悩んだが、行かなかった。

演奏する曲目が「展覧会の絵」ということで、とうとう行かなかったんだ。

「展覧会の絵」も、見事な曲で、それこそオーディオチェックにはもってこいとも言える曲なのだが、

それこそ何か月分かの小遣いと貯金をはたいて聴きに行く曲では私にはなかったんだ。





レコード芸術は相変わらず買い続けていて、もはやその量はとんでもないものになってきた。

海外通信も、相変わらず読みきっていたが、

ある時、目を疑うような記事を見た。

あのチェリビダッケがブルックナーを振ったようだ。



びっくりした。



しかし、うれしかった。

とうとうチェリビダッケのブルックナーが、世に発せられたんだ。





さらに数年が経ち、

再びチェリビダッケの来日のニュースが入ってきた。

しかも、曲目はブルックナー!

しかもしかも「8番」!



「おー! おー!!!」



一人で吼えても寂しいものだが、気分はおそろしく高揚していた。






小遣いをかき集めてチケットを買った!

良い席は買えず、

しかもさすがに超満員らしく、

フェスティバルホールの最上階の後ろの方の席しか取れなかった。



あの大きなフェスティバルホール中に、

それまで感じたことの無い異様な緊張が在ったことを思い出す。

あのコンサートに来た人全てが、固唾を呑んで音が発せられるのを待っていた。




ブルックナーの森

さざめきの中から、ゆっくりと音楽が首をもたげる。






コンサートが終わり、私は隣のホテルへ急いだ。

指揮者や楽団員は、裏口からこのホテルに流れてくるはずだ。


チェリビダッケにあわよくばサインを貰おうとか考えたわけではなかったが、

とにかく向かった。




長い長い時間ののち、

とうとう燕尾服のままのチェリビダッケが姿を現した。

何人もの付き添いに囲まれ、ゆっくりゆっくり歩いてきた。




私はその異様な雰囲気に何もすることが出来ず、

チェリビダッケがエレベーターに乗るのを呆然と見送った。



しかし、

私の気持ちは満足感に満ちていた。






ブルックナー_e0080678_1272919.jpg





久しぶりに、ブルックナーの5番を聴こうと思った。

最近はそうなんだ。


ブルックナーを聴きたいと思った時に手に取るのは5番が多くなった。


ひと昔前の私なら、きっと違う交響曲を手に取っていた。





マーラーでもこういう変化が自分の中で起こっている。

最近よく手に取るのは7番になってきた。




なぜこういう変化が起こってきたのかを考えることはさておいて、

先ずは聴こう。



ブルックナー_e0080678_12142222.jpg


これはティーレマンの指揮



5番は、ドイツ系の指揮者が非常に好むところではあるのだが、

意外と良いレコードが無かった。


有名なクナッパーツブッシュも、5番は私にはどうもピンと来ない。

それでも最近あの演奏のテープを買って聴きなおしてみたが、

印象は大きくは変わらなかった。



一番問題に感じるのは、肝心の最終楽章の中間部。

ほとんどの演奏が、へたくそなコラージュのような印象を受ける。

音を単純に散らばらせただけのような。



たしかにこの5番は問題が非常に多いと言われ、

シャルクなどによる「改訂版」が古くから使われてきた。

上述のクナッパーツブッシュの演奏も、実はこの「改訂版」が使われている。


悪名高き改訂版ではあるが、

私ごときが言うのはお門違いだが、確かになんとかしてやりたくなる曲ではある。

誰が指揮しても、不満の残る部分は大なり小なり同じで、

これならいっそ弄ってやろうかと、才有る人なら考えても無理は無いと思う。






    。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。





ティーレマンのブルックナーの5番を聴いていた。

恐らく、現代の指揮者で、いや、録音が残っている指揮者の中でも、この演奏は素晴らしいと思う。

もはやクナッパーツブッシュを聴かなくてもいいのではないかと思える。

第4楽章の問題のコラージュには新たな回答は得られていないが、

それでもこの演奏は良い。




聴き始めて、

第4楽章が始まり、聴き進めて、演奏が最後のクライマックスに差し掛かった時、

電話が鳴った。


無視しても良かったのだが、

集中はすでに途切れていたので電話に出た。

何の話だったかは忘れたが。。。。




電話が終わった頃には曲はすでに終了していた。




なんだかもったいない気分になって、

もう一度聴きなおそうと思った。

再びティーレマンを聴くのも芸が無いと思われたので、

CDの棚を漁ってみた。



聴いた記憶の無いCDを見つけた


ブルックナー_e0080678_0253344.jpg




シューリヒトの指揮だ!


こんなの買ってたんだっけ。。。




これは1963年のライブ

当時の(恐らく)放送用の録音で、モノラル。

オーディオファンにはもはや薦めようもないが、

私はそこら辺はあまり気にならないので聴き始めた。





完全な解決があった。

これ以上の演奏は無いだろう。




私は今初めてブルックナーの5番を理解できたのかもしれない。

例のコラージュは、もはや全てが意味を持って融合している。

しなやかな音楽の流れは、実に自然だ。








ブルックナーの5番を聴きたいなら、他のものは全くだめだ。

この演奏しか無いと思う。












気持ちが落ち着いてから、

少しいろいろ考えてみた。




それまでどうしても納得できなかったものが、

ある演奏を聴いて全く氷解してしまうと言うような経験は、実は他にも有る。

これもブルックナーなのだが、

それまでどうにもこうにも理解できなかった部分が、ヨッフムのライブを聴きに行って、

そのコンサートで全く自然に納得できた。




これは、先ずその指揮者の解釈が完全に行き届いているから可能なことであって、

逆に言えば、他の指揮者はその部分の解釈が出来ていないということだね。







しかし、もう一つ気になることがあるんだ。

ヨッフムのその指揮で素晴らしい解決がもたらされたのだが、

その肝心のヨッフムのレコードでは、あの解釈がまったく表現できていないんだ。

ヨッフムであっても、レコードになった演奏は、酷い言い方をすれば、他の凡庸な演奏と変わりは無い。






考え込んでしまう。




シューリヒトの5番はライブの演奏。


ヨッフムが素晴らしかったのはライブであって、レコードではだめだった。






いろいろ考え込んでしまうが、




我々は、結局は、与えられたものの中から選択するしかすべは無い。

それ以外に我々ができることは、オーディオを整備することしか無い。

by johannes30w | 2012-11-17 12:05 | オーディオと音楽


<< スチューダースチューダースチューダー      ベルト >>