2008年 06月 14日
演奏スタイルは、どんどん変化し続けている。 作曲家自身が演奏者であった時代はまだいいが、演奏家が独立してその地位を気づいてきた近代にはいろいろな問題があると考えられている。 話が複雑になるので指揮者の立場を考えてみる。 ニキシュ以来、フルトヴェングラーを経て現代に至るその指揮者の流れ、その解釈様式にも多くの変遷が見られる。 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・- 楽器というものが大きく変化したのは19世紀。 演奏会場が、サロンから大きなホールへ変わっていくにしたがって、楽器には大きな音を出すことが出来る性能が要求されだした。 結果として、現在の楽器が存在するわけだが、その楽器の変化による演奏方法の変化も大きい。 近年、原典回帰ということで、曲が作曲された時代の楽器で、出来る限りの当時の演奏形態を再現する試みがなされている。 私が知っている限りでは、今はウィーンフィルも当たり前に振るようになったアーノンクールもそういう考えを持って音楽界に登場してきた。 当時の楽器で、当時のスタイルを再現して演奏する。 さらに曲に対しても、出来る限りの文献を調べ上げ、その解釈に盛り込む。 ちょっと聞けば、これらはまったく正しい方向に思える。 しかし、 これは新しい流れでもなんでもないんだよね。 楽曲解釈の一つの方向性、考え方を、改めて声高に言っているにすぎないんだ。 これらの「新しい」解釈は、HIP(ピリオド楽器、ピリオド奏法による演奏)を合言葉にしている。 我々が簡単に判断できる材料としては、古楽器によるノンビブラート奏法 (ビブラートって新しいんだよね。古典派の時代には無かった) 1970年に入って、多くの古楽器オーケストラが結成され、盛んに活動を始めた。 私自身は、特に興味はなかったが、1~2のレコードは買ってみたりしていた。 が、 面白いものは、ほとんど皆無。。 まさに研究用、もしくは学術的意義があるものとしてしか存在意義がないようにさえ思えた。 でもね、これは、結局指揮者、演奏家が未熟だったため。 最近になって、HIP自体がはっきりと音楽界に浸透し、ピリオド奏法も、あたりまえのものとして選択、受け入れられてくると、とたんに魅力的な演奏も表れだした。 そういう時代になって、一般(?)の指揮者、演奏家の当然の教養として、HIPが咀嚼されはじめた。 最近の指揮者、演奏家はこれを考えることなしには、いや、当然の選択しとしてHIPがある。 だけどね、 ある時、HIPを強く牽引するノリントンのコメントを聞いて、考え込んでしまった。 彼は、その時ベートーベンのシンフォニーのリハーサルをしていたのだが、 「これは馬だ!」 「ベートーベンの時代は馬だ !」 「蹄の音!」 「走り回る!」 と、ノリントンのリハーサルは、大暴れ。 すこぶる面白い。 しかし、その後、インタビューアーの質問に答えて、 「私はベートーベンの想定した音楽を、再現したい」 ふむふむ、 「ベートーベンに聞いてもらいたい」 ふむふむ、 「ベートーベンがどう思うかのみが、私の気がかりだ」 ・・・・・・・ ひねくれ者の私は、ここまで聞いて、ちょっと待ってくれと言いたい。 この、「ベートーベンが・・・」という言葉は、HIPを表立って標榜している指揮者以外からも、最近も聞いたことがある。 簡単に聞き流してしまえば、見上げた姿勢にさえ思える。 しかし、 それでいいのか? 演奏者は、作曲家と聴衆の間を取り持つ存在だ。 作曲家の表現したかったこと、訴えたかったこと、その心情を、大衆である我々に、示してくれるべき存在であるはずだ。 聞かせるべきは、ベートーベンではなく、我々であるはずだ。 ベートーベンは、シンフォニーで馬が走り回るさまを表現してそれでよしとしたのか? 違うはずだ。 馬が駆け回るさまを表現することで、何かを伝えたかったはずだ。 何かを伝えるために、馬が駆け回るさまを表現したはずだ。 当時の人間なら、馬が駆け回るさまを聴いて、その何かを受け止めることができたのかもしれない。 しかし、現代に生きる我々は、馬が駆け回るさまを聴いても何も受け止められないんじゃないか? 時代が変わるとはそういうことだ。 では、作曲家と聴衆を繋ぎとめる演奏家が行うべきは、馬が駆け回るさまを表現することよりも、作曲家が伝えたかった「何か」を我々に提示することじゃないのか? 聴衆不在の音楽を奏するものは学者なのであって、演奏家じゃない 相変わらず好き勝手なことを言いながらも、私はノリントンの演奏が嫌いではない。 ま、あえて聴こうとは思わないだけだ。 このHIPの広がりは、その張本人たちだけではなく、多くの演奏家に大きな影響を及ぼしてきたように感じる。 一時は、自分の姿勢が定まらない演奏家が多く、音楽もどっちつかずのような中途半端なものばかりであったように思う。 。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。 上のCDは、パーヴォ=ヤルヴィ指揮によるベートーベンの5番 「運命」ですね この5番「運命」は、初めて全曲聴いた時、やっぱり驚いた。 例の「ジャジャジャジャ~ン」なんだけど、それこそこの極東に住む子供でもマンガやテレビで知っている。 知っていたのだが、知らなかった。 テレビなんかで知っている「運命」っていうのがあまりに軽薄だったことを、当然のごとく思い知らされた。 ただ、子供にとってはやっぱりどうしようもなく恥ずかしくって、聴きたいんだけど、大きな音では聴けなかったなぁ~ (今は、精神もすれっからしになっちまったんで、周りが恥ずかしいくらい大きな音で聴けます (^_^)v ) ヤルヴィと言えば、私にとってはネーメ=ヤルヴィ(パーヴォのお父さんだね)の方がなじみが深い。 コンサートにも何度か行ったっけ。。 いい仕事をきっちり仕上げるお父さん。 ちょっぴりおふざけが好き。。。 出来のよい2人の息子の一人がこのパーヴォ。 どこかでちらっと聴いただけだったが、なかなかシビアな演奏をするいい指揮者だなぁ~と思っていた。 パーヴォ=ヤルヴィは、大阪国際フェスティバルにグリモーと一緒に来た時に聴いた。 オーケストラは、フランクフルト放送響。 ベートーベンの皇帝と、ブラームスの2番だった。 喜びに満ちた美しいベートーベン、明快で、自由自在なブラームス。 いい演奏会だった。 最も驚いたのは、その時のフランクフルト放送響の響き。 実に美しかった。 フランクフルト放送響と言えば、私などはインバルを思い出してしまう。 インバルも何度も聴いたが、あのオーケストラが、あんな美しい響きを発するのを聴いた覚えが無い。 ピュアで、美しい響き。 実はこのコンサート、パーヴォ=ヤルヴィのHIPに対する考え方など、全く気にせずに行ったんだ。 当日、あの美しい響きがなぜ聴けたのか、しばらく考えていた。 やはり、HIPで育ったおかげなのかもしれない。 ノンビブラートでの美しい響きをよく知っている。 ただ、ノンビブラートというのは、弦楽器奏者にとっては大変だろうな。 ビブラートでごまかせないもの、、、。 HIPがどうのこうのというお話は別にして、と言いたいところだが、現在の指揮者においてはこのHIPに対する考え抜きでは音楽が成り立たない。 どうしたってその影響を受けている。 一番面倒なのが、メジャーオーケストラの常任クラスなんだろうと思う。 メジャーオーケストラでは、そこで使われている楽器は当然現代のモダン楽器。 もし指揮者がピリオド楽器を使いたいと考えてもそれは無理。 しかし、ピリオド楽器を使えないということで、その常任の座を捨てるわけにもいかない。 どうするか。。。 そういう意味で、中途半端な演奏になってしまっているのかもしれない。 ここら辺をきちんと咀嚼して、音楽として成熟させることができた初めての指揮者がラトルだと感じている。 彼がベルリンの常任になったことは、私にははっきりとした新時代の到来を感じさせる。 -。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。 前任のアバドの楽曲に対する考え方を思い出してみると、現代の指揮者の立場がよりいっそう鮮明になる。 アバドが登場してきた時も、世間では新時代の到来だと騒がれた。 これは、HIPなどよりも、ある意味本当に新しい時代が来たことを意味していた。 アバドは、楽譜に全てがあるという立場をとっている。 これは新鮮であった。 それまでの指揮者、音楽家は、やはりいろんな研究の上に音楽を成り立たせていた。 作曲家の生い立ち、人生、その人となり、作曲が行われた時期の作曲家の境遇。 いろいろな調査研究を重ね、それを解釈し、音楽を考え実践する。 これはどうしても正しい姿勢だと考えられる。 しかし、作曲家の全てを調べ上げ、解釈しつくすことなど現実にはできるはずもない。 調査研究といえども限界があるということだ。 言ってみれば、全ての研究と言うものは、中途半端な形として終わらざるを得ない。 アバドはこの中途半端な状態を嫌う。 いい加減ではなく、中途半端ではなく、確実に間違いないものは何か? スコアだ。 だからアバドは楽譜を読む。 他の「いい加減な」「情報」などではなく、確実で、間違いのない唯一の情報として楽譜を読む。 この姿勢は他には無いものだ。 それまで無かったものだ。 だから、アバドは新時代と言われた。 ベルリンの常任がアバドからラトルに変わった。 ラトルもHIPを咀嚼している。 十分その考え方、方法、そして音楽を知った上でベルリンフィルを振る。 音楽は新鮮で、新しい時代をひしひしと感じさせる。 しかし、実は、HIPの考え方自体はアバド以前に戻った。 作曲家の時代、生き様、その時の状況を考え、音楽を作るということなんだね。 ここにクナッパーツブッシュのベートーベンがある。 昔はこういうレコードを血眼になって探し、むさぼり聴いた。 いまや、HIP陣営からは悪の権化みたいに考えられてる演奏。 私にしても、ヤルヴィの直後に聴くと、いきなりひっくり返る。 だが、 その音楽を作る姿勢において、クナッパーツブッシュはアバドよりヤルヴィやHIPに近いんだ。 いや、 逆か。 本当は、ヤルヴィやHIPは、アバドよりクナッパーツブッシュに近いのかもしれないね。 クナッパーツブッシュを聴こう 確かにHIPを含む現代の演奏を聞いた直後に聴けば、その異様さに愕然とするだろう。 しかし、頭で考えるのではなく、その音、その流れに身をゆだねよう 音楽を、身体の全てで感じよう 流れに身をゆだねれば、音楽が自然に呼吸していることがわかる。 一つ一つのフレーズが、温かく息づいている。 おどろおどろしさなどもはや消えうせ、音楽への慈しみさえ感じさせる。 素晴らしい音楽。 聴き終えた後、いろんなHIP演奏を思い出してみると、 それらが、つまらない事ばかり気にした小賢しい演奏に思えてくる。 恐ろしいもんだ。 全ての人は、自分のベートーベンを持っている。 ベートーベンを聴き、ベートーベンを感じ、それがその人のベートーベン。 正しいとか、間違っているとかではない。 ベートーベンを聴こう。
by johannes30w
| 2008-06-14 14:57
| オーディオと音楽
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