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2010年 11月 18日

6番

6番をよく聴くようになったのは、

カラヤンのレコードを聴いてからかもしれない。

ずいぶん昔のことになっちゃったから、少し記憶が曖昧なのだが。



自分の全ての体験がそうなのだが、

一つの曲を気に入るまで、いつもかなりの時間を必要としていた。

6番だって例外じゃなく、

確かにバーンスタインの全集は持っていたはずだし、バルビローリの演奏だって聴いていたはず。

でも何度聴いてもさっぱり解らなくって、半分嫌になってた。




当時、私はカラヤンは好きではなく、何故あのレコードを買ったのかは覚えていない。

でも何故だか気に入っちゃって、

いや、

やっと全体が理解できて、

またまたいつものようにお気に入りになって、

よく聴いた。




そのうちカラヤン以外の演奏も聴くようになった。



曲全体の把握が出来ているから、

それぞれの演奏を理解していくのに苦労は無く、

どんどん聴けるようになった。




   。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。





バルビローリのマーラーを聴き始めたのは、ベルリンフィルとの9番から。

正規盤でEMIから出ていたのは5番、6番、そして9番。

9番の演奏に打ちのめされて、あわてて5番、6番と買った。

しかし、両方のレコードとも、どうもピンとこなかった。

その遅い遅いテンポはもはや異常だと言いたくなるほどで、

音楽なんていう言葉の流麗な響きとは全く異質なものとして感じられた。

表現主義的なあざとさとさえ思えた。




6番のこのレコードも、

どろどろと蠢くその病んだ精神ばかりが気になって、

ろくに音楽が聴こえてこなかった。



しかし、カラヤンの演奏で曲全体のフォルムが把握できた耳には、

バルビローリの演奏は、全く違ったものとして聴こえてきた。

    


   ・-・-・-・-・-・-・-・-・-・


6番の第三楽章アンダンテ(第三楽章というべきかどうかは議論が必要だが)、

これはマーラーが書いた曲の中でも最も美しい音楽の一つだが、

ここで使われるカウベルの意味が解らなかった。

カウベルは、他の交響曲でも使われているのだが、それまでその意味するところにどうしても納得できていなかった。

もちろんマーラー自身の言葉、それに対するコメントなどは目にしてきたし、

音楽学者による分析、解説も嫌というほど読んできていた。

しかし、頭で理解できるものなどたかが知れている。

音楽は、感じなければわからない。



バルビローリの演奏を聴き込んでいったある時、

そのカウベルの響きの意味が、

ぞっとするような恐ろしい現実となって感じられた。

音楽体験の最も大切なその経験は、

言葉では説明できるものではない。

いや、説明すればするほどそれは違う意味になってしまう。

音楽を言葉で説明しようとする行為はナンセンスで、

もしそんなことが出来るなら音楽は要らない。

それぞれの一人一人が自分の心で直接感じ取れるものが音楽で、

それは本当は共有できるものではなく、

そういう意味で、音楽を聴くということは、おそろしく孤独なもの。






話がそれたが、

カラヤンの演奏で目覚めた6番への理解は、

私をバルビローリの演奏へとどんどん誘った。

その演奏が、唯一無二のものへと変わっていった。



大切な、大切なレコード



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でも、

この大切なレコードにはどうしても許せないことがあった。

あまりに酷い音なんだ。

バイオリンはピーピー言ってる。

チェロはコーコー、トランペットはキーキー。

何なんだこれは!




同じくバルビローリとニューフィルハーモニアの演奏でのもう一枚のマーラーのレコード、

5番の方は特には酷くない。

どちらかといえば、いい録音だと思える。

じゃ、この6番のレコードは何でこんなに酷いんだろう。



その酷さは聞いたことがある。

当時EMIレーベルの廉価盤はセラフィムという名前で売られていた。

セラフィムのレコードの音は、そのレコードを持った感触と全く同じ音がした。

薄っぺらで頼りない。



6番のレコードの音の酷さはセラフィムの音の酷さに似ていた。

ならば、

きちんとしたプレスがされた盤ならば、

本来の音が聞けるんじゃないか?

本来の音で6番が聴けるんじゃないか?



この6番のレコードの外盤探しが始まった



   ・-・-・-・-・-・-・-・-・



このレコードを買った頃は、

まだ国内盤と外盤の違いや、音の違いからくる音楽の聴こえ方の違いなどには思いも及ばず、

ひたすらレコードを買ってきては聴いていたんだ。

そのうち外盤は国内盤とは全然違うらしいという話を知り、

実際に買った外盤でその音のよさにびっくりして、

もう買うのは外盤だけにしようなんて決心したり。



限られたお小遣いの中での話しだから、

すでに国内盤で持っているレコードの買いなおしは難しかった。

でも、

絶対買いなおしたいレコードの筆頭だったのが、このバルビローリのマーラーの6番だった。

レコード屋に行って、外盤が置いてあれば、先ずはこの6番を探した。



5番は意外とすぐに見つかった。

やはりメジャーな曲は手に入りやすいんだね。

ドキドキ買ってきて、聴いてみると、

国内エンジェル盤でもなかなか良かったと思えた音が、全く嘘だったことが判ってしまった。

全然違う!

明らかに、これが本物だと確信できる音だった。

当然、音楽の聴こえ方さえ違ってくる。

これはえらいことになったと思った。

何としても、6番の英国プレス盤を見つけなければいけない!








でも、

何年も何年も探し続けたが、とうとう見つけられなかった。

時はどんどん進んでしまって、

CDの時代になってしまった。

レコード屋からレコードが消えた。




私はとうとう6番の英国プレスを聴くことができなかった。

しかし、

CDだよ。

もしあの6番がCDで復刻されたら、

あの忌々しい音は、元の響きを取り戻すかもしれない。

私はCDでの復刻を待った。

今やCD屋となったレコード屋では、あの6番がCDで復刻されて発売されていないかを探す日々が続いた。

そして、

とうとうCDで復刻され、

いそいそ買ってきたのがこのCD。


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いそいそ買ってきたと書いたが、

あまり面白くなかった。

何と言ってもこのつまらないジャケットデザインが面白くない。

JAZZなどの場合、ジャケットデザインは、

再発盤でもオリジナルのものを多かれ少なかれ踏襲するようだが、

クラシックの場合、再発盤でオリジナルデザインを引き継ぐことはまず無い。

何故なんだろうね。



ともかく持って帰ってきて聴いた。

思いっきりがっかりした。

エンジェルのLPとほとんど同じ音だった。

あー、

やっぱり。

これは録音自体がそんな音なのかもしれないと、がっかりした。






しかししかし、

あきらめきれない。。



このCDは日本製、日本人が作ったのであれば、日本人の音になるに違いない。

CDだって外盤なら本来の音を残しているかもしれない。



あまり期待は出来なかったが、そう信じたかった。

外盤CDを探した。

探して探して、

さらに何年か経った後、見つけた



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国内盤のジャケットよりは少しはましだが、

これとてわけのわからないジャケットには違いない。

ジャケットにこだわるのも変なのかもしれないが、

いやいや製作者の立場になってみれば、

その盤への思い入れ、熱意が最も表れるのがどうしてもジャケット。



音は、

少し深くなった。

基本的なものは当然ながら変わらないが、

深くなって、奥行きが出て、

安心して聴けるようになった。







最近は、

こういう過去の放送用に録音された演奏を聴けるようになった。

これは1967年8月16日にロイヤルアルバートホールで行われた演奏会のライブ録音

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この演奏会の後、17日18日19日の三日間を使ってセッション録音されたのが、

いままで話題にしてきたレコード。



演奏会でしっかりリハーサルしているのにさらに録音に三日間もかけてるのは凄いが、

聴き比べると良くわかる。

ここまでの表現を盛り込もうとすれば、それはライブでは無理。

どの一つの音をもおろそかにはさせていない。

勢いだけで流してしまわない音楽。

一音一音をつむいでつむいで、出来上がったもの、

それが音楽なんだね。








マーラーの6番には大きな問題がある。

それは中間楽章の順番の問題。


マーラーは作曲が完了し、初演(エッセンでの作曲家自身による演奏)を行った時点では、

スケルッツオを第二楽章、アンダンテを第三楽章としていた(1906年3月)。

その後、友人達の意見を聞き、アンダンテを第二楽章、スケルッツオを第三楽章に入れ替えた(1906年6月)。

(この時に、最終楽章で三回行われるうちの、最後のあのハンマーの一撃が消去された)


その後

やはり元の配置がいいと考え直したという話。

歴史的には第三版というのが存在し、そこでは中間楽章は元の配置にもどされている(1906年7月)。

第三版というのは作曲家に送られた第二版を作曲家自身が更訂し、出版社に送り返されたもの。



さらに後に、国際マーラー協会が、1907年にマーラーがこの交響曲(第三版)を演奏しようとするメンゲルベルクに送った手紙の内容を考慮し、修正されたものを、国際マーラー協会版として出版している。

これが1963年




私がこの曲を知り始めた頃、

6番は、スケルッツオが第二楽章で、アンダンテは第三楽章だった。

しかし最近の演奏では、第二版のように、この中間楽章を逆転させている演奏が多い。

つまり、アンダンテは第二楽章、スケルッツオが第三楽章。

ラトルなんかがこの配置で演奏している。

さらにそのCDには「第二、第三楽章を初演当時の順番に準じて入れ替えた形での演奏」なんて注釈まで入ってる。

どうなってるんだ?







私自身はこれにどうしてもなじめない。

どうしても、なじめない。



バルビローリのレコードは、国際マーラー協会版を使っていると説明されている。

確かにレコードではそうなっている。

しかし、ライブでは、第二楽章がアンダンテで、第三楽章がスケルッツオだ。





レコードを作るときに、「バルビローリの承諾を得て」第二楽章をスケルッツオ、第三楽章アンダンテとして発売したという断り書きをどこかで読んだ気はする。




バルビローリの真意はどっちだ?






さらにCDを買った。


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このシリーズのリマスターCDは、クレンペラーの盤を結構買っていて、

音もなかなかよかったのでお気に入りだった。

だからこのシリーズでこのバルビローリの6番を見つけたときは、かなり嬉しかった。

いけるんじゃないか?  と。

実際に、かなりいい感じで聞ける。

ただ現代風にハイファイになってきていて、少し作為を感じてしまうが、

いやいや、十分良いんじゃないか。



ただ、



ただ、大きく気になる点がある。




このレコードにはR.シュトラウスのメタモルフォーゼンが入っていて、

これも素晴らしい演奏で、大切に聴きたいものではあるのだが、

それが一枚目のCDの頭に入っている。

これはありがたいんだ。

レコードの場合、一枚目A面に6番の第一楽章、B面に第二、第三楽章、2枚目A面に第四楽章、

そしてメタモルフォーゼンは2枚目B面に入っている。

これは何の問題も無いのだが、

このままの順番で作られたそれまでのCDでは、

2枚目のCDをかけていると、6番が終わって、そのままメタモルフォーゼンが始まってしまう。

これは嫌だ。

6番にぎりぎり集中して聴いてきたのに、次は始まって欲しくない。

CDプレーヤーを操作すればいいのだが、そんな気持ちの余裕は残されてないんだ。



だから、レコードの順番じゃなく、CDになったのならこのメタモルフォーゼンを最初に入れてくれてるのは

なによりありがたいんだ。





問題は、

このバルビローリの6番の楽章の配置が、ライブと同じに戻されていること。

つまり、

第二楽章にアンダンテ、第三楽章にスケルッツオという順になっている。

どういうことだ?

CD製作者が勝手にやったのか?



確かにバルビローリはライブではその順に演奏している。

しかし、バルビローリ本人の許可を得てアンダンテを第三楽章にしたんじゃなかったか?

勝手に戻して良いのか?



ライブで第二楽章アンダンテでずっと演奏してきたのは確かだから、簡単に考えればそれでいいのかもしれない。

しかし、このレコードが出て以降、バルビローリは6番の演奏をしていない。

このレコードがきっかけで、第三楽章をアンダンテにしなかった確証が無い。

確証が無いのであれば、最後の許可をバルビローリの意志として尊重すべきじゃないのか?





そんなことがあって、

私はこのCDを手にしなくなった。





  ・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・




友人が増え、

その影響もあって、私はもう一度アナログに力を入れるようになった。

最初は、それまで自分が過去に買ってきたレコードをしっかり聴ければいいとだけ考えてきた。

でも、

新たにレコードを買うようになってきてしまった。



単純にレコードの方がいいなんては思っていない。

レコードにもCDにも、それぞれ良さも悪さもある。





時にレコード屋に出かけていって、いろいろ物色するようになった。

身体が覚えているせいか、レコード屋でレコードを探すのは、実に楽しい。



そんな時に、先ず探すのは、

何十年もまえから全く変わらない。

未だにバルビローリのマーラーの6番を探してる。




ある日、とうとう見つけた。

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ドイツプレスではあったが、

とうとう見つけた。

なんとも嬉しかった。

嬉しかった。







中間楽章は、第二楽章がスケルッツオ、第三楽章がアンダンテとして作られている。

安心した。





アナログ環境が、まずは納得できる状態になってきて、

やっと聴く気になった。





・-・-・-・-・-・-・-・-・




英国初期プレスには及ばないのかもしれないが、

やっと本来の音が聞けたと感慨深い。




もはやピーピー鳴ってるバイオリンはいない。

きちんとしたオーケストラが聴ける。

本来の音を取り戻したオーケストラは、バルビローリの意図したマーラーを響かせる。





リマスターっていったいなんだろう。


マスターテープに残された音を現代の技術で出来る限り「忠実」にCDに落としたものなのだろう。

しかし、マスターテープをそのまま再生したとしても、それが録音技術者が本当に意図したものなのだろうか。

技術者が、レコードを世に問うために心血を注いで行った仕事は、レコードとなって初めて完結したモノとなるはず。

それならば、リマスターCDを作る者は、少なくともオリジナルレコードを先ずは聴き、

その音を再現するべきじゃないのだろうか。

マスターテープしか知らないリマスターは、録音技術者たちの意図を、半分しか汲み取っていないことになりはしないか?









このマーラーを聴くのに何十年もかかってしまった。

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by johannes30w | 2010-11-18 10:11 | オーディオと音楽
2010年 11月 15日

あわせ鏡

マーラーを聴いている反動か、

チェンバロを聴くことが多くなっている。

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正直に言えば、オーケストラ以外の曲を、自分がこんなに聴くようになるとは思ってもいなかった。

もし、オーケストラ以外の例えば器楽曲をメインに聴いていたのなら、

こんなシステムにはならなかったのかもしれない。

チェンバロを聴く人があんなに大きなホーンを使いたくなるとは思えないものね。



でも、

オーケストラ再生も、自分ではかなり納得のいくレベルまで持ってこれて、

さあ、一休みじゃないが、器楽曲などを聴くと、これが実に上手く鳴る。



自分で自分のシステムを誉めるのは見苦しいが、

それでもうっとり聞き惚れてる。

一人の演奏者の思い入れに息苦しくなる。


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RCAのギアドライブプレーヤーは動き出し、

素晴らしい音を聞かせてくれている。

もっともっとブラッシュアップしていくつもりではあるが、

ほぼめどは付いてきた。


であれば、

もう一台のプレーヤーを回すことにしよう。

完全に国産のこのプレーヤーは、たった一つのことを目的とする。

中島みゆきの再生




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こんなふうに聴けるのは、

なんと贅沢なことか。



よくぞここまで頑張ってきたもんだな



でも、

いらない感傷には蓋をして、

耳を澄まそう

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by johannes30w | 2010-11-15 10:29 | オーディオと音楽
2010年 11月 11日

コンチェルトグロッソ

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ヘンデルの曲は、あまり聴かない。

私にとってヘンデルは、メサイアよりこのコンチェルトグロッソ。

今時のクラシックファンはこういう曲は聴かないのかな。



後のいろんな交響曲に比べると、小編成だし、曲も短い。

しかし、その内容は深く、もし知らない人がいるならぜひ聴き込んで欲しい。

なまじっかの曲集じゃない。

これに比べると、私にはバッハのブランデンブルクも霞んで聴こえる。






この時代の曲だから、BGM的に聴くべきだという人も居るかも知れないね。

私もそう考えていた時期もあった。

しかし、芸術なんてそういうもの。

ルーベンスの描いた貴族の肖像画は、肖像を見る意味だけではなく、

それそのものとしてその存在を勝ち得ている。

芸術になっているということだよね。




テレマンのターフェルムジークを眉間に皴を寄せて聴いている人がいても、

私は笑わない。

そこに芸術があると考えるから。

その芸術が、その人だけのものであったとしても。







このレコードは、一枚に3曲入っている。

それぞれの一曲の中に、交響曲の楽章のように数曲入っているのであるが。

しかし、3曲が一枚のレコードに入っているということは、2曲目が、当然A面とB面にまたがってしまう。

それがどうにも残念。


こういう曲集の場合、

流して聴いてしまうことが多いのかもしれないが、

一度、一曲一曲をじっくり聴いて欲しい。

流してしまうとどうしてもその素晴らしさに気付きにくい。

すると、

ソフトのありかたに影響されてくる。




この一曲というつもりで聴き込む時、

勝手に次の曲が始まってしまうと、どうにも集中できない。

レコードの片面に一曲という形であって欲しいのだが、

どうもそうはいかないらしい。



レコードはまだましで、CDになると、一曲どころか、それこそ全曲入ってしまう。

ありがたいことには違いないが、

そんなに入っていると、どうしても聴き流してしまう。



贅沢な悩みには違いない。



SPの時代には一曲だって片面には入らなかった。

苦労して聴いたはずだ。

苦労して聴くべきだとは言わないが。



今の時代、ヘッドフォンさえすれば、どんな場所でも音楽を楽しめる。

素晴らしいことだと思う。

思うが、

簡単に音楽を楽しめてしまうから、

苦労をせずに済むから、

大切にしない。



そりゃ音楽業界もパッとしなくなるよね。

by johannes30w | 2010-11-11 15:20 | オーディオと音楽
2010年 11月 08日

周辺 2

気が付いてみれば、



何もかも物足りない。

あのどきっとするようなエネルギーはどこへ行った?

眩暈がしそうな音のひらめきはどうした?



さらに気が付いてみれば、

アンペックスの良さも、全く聞き取れない。

ライブよりライブらしいその生々しさは?

分厚いクリスタルのような美しさは?





接続方法も含め、いろいろ頑張ってみたが、根本的解決は無かった。


お互いの良さを相殺してしまう組み合わせになってしまうと結論付ける以外には無かった。







ぐるっと一周回って、結局マランツ7Tに戻る。




おお!

これだ!




私の周りに置いてある機器はほとんど変化は無かった。

見た目の変化といえば、昇圧トランスがノイマンのフォノイコライザーに替わったのみ。


代わり映えしないその雰囲気の中で、

レコードの音楽だけが息づき始めている。


私はご機嫌だ

by johannes30w | 2010-11-08 12:34 | オーディオと音楽
2010年 11月 08日

ノイマンのフォノイコライザー周辺

先ず、単体で聞いた。

過不足無く、妙な癖も無く、まさに完全なる再生性能だとため息さえ出る。

普通こういうプロ機にありがちな無味乾燥なんていう言葉は、どこをどう聞いても出てこない。

プロ機が無味乾燥なんて予想してしまうのは、中途半端なプロ機が作り上げた迷信のせいだ。

本当のプロ機は、圧倒的な、まさに圧倒的な魅力を持つ。

「魅力」という言葉が誤解を招くなら、説得力と言い換えてもいい。



完全なる再生なのだが、「音」がどうだという感想を持ちにくい。

あえて言えば、そこで奏される楽器の、演奏者の艶めかしいとも言える肉体を感じさせる。

ハイファイなんていう嘘じゃなく、

解像度が高いとか音場が広いとか、そういうつまらんオーディオの話じゃもちろん無く、

それは音楽をそのままに伝えようとする根源的な目的を持つ妥協を許されない機器であることが

私にも厳しく感じられる。



こんな機器に比べれば、他のほとんどのフォノイコライザーは、

オーディオというお遊びの中でのみ存在が許されるおもちゃだと、失礼も顧みず叫びたくなる。






このノイマンのフォノイコライザーから直接ノイマン444Aフェーダーに繋いだ状態で、

上記の感想を得たわけであるが、昨日も書いたとおり、このままでは若干ゲインが足りない。

したがって、先ずはそれまでフォノイコライザーとして使っていたマランツ7Tを間に入れてみることにした。

当然AUX入力とし、7Tのフォノイコは使わない。

マランツ7Tは、実はあまり期待もせずに買ったものだが、実際に使ってみると、これがさすがに相当いい!

かなりお気に入りになっちゃって、他のフォノイコを押しのけて、私の常用プリ(フォノイコ)になっていた。

いろいろ好きな点はあるのだが、最も特徴的なのが、その低域への伸び。

作られた時代から言ってもそんなことはメーカー自身も考えていなかっただろうが、

恐ろしいほど最低域まで伸びている。

うちの30Wがうなりを上げるのは、このアンプだけだった。

そんなこともあって、お気に入り、常用となったわけではあるが。





繋いでみる前は、じつはあまり期待していなかった。

言うなればノイマンとノイマンの間に挟まれる形となる。

ノイマンとマランツの組み合わせなど、想像できない。

ただそんな事前の自分のイメージなどくそ食らえで、

逆にしっかりイメージ・想像を消し去った上で聞かなければ前へは進まない。

実際に繋いで見ると、これが実に具合がいい。

その特徴たる低域への伸びは健在で、その特徴がフォノイコ部の特徴なのではなく、

アンプ全体としての美点であることが解る。



予想以上にうまくいったので、後の2機種にいやがうえにも期待が高まる。




クラークテクニクのグラフィックイコライザーに換えてみる。

このグライコは、無限大まで絞れるボリュームが付いているのでプリとしても使えて重宝する。

キーワードはヨーロッパ製プロ機

ノイマンはドイツ製、クラークテクニクはイギリス製。

ドイツとイギリスがそんなに仲がいいとも思えないが。。。



こんな使い方をしても、当たり前だが、それぞれの機器の特徴が良く出る。

クラークテクニクに換えたとたん、なんだかひなびた雰囲気が出る。

これはイギリスの音なのだろうか。

そう言えば、トランジスタのクオードの音を思い出す。

これはこれでいいのだが、どうも私のガラじゃない。


可哀想だが早々に撤去。



さあ、アンペックス。

キーワードは、プロ機という以外には無い。

アンペックスのAM-10ミキサーは、これもお気に入り。

現在の私のシステムには使う場所も無く、これから先もおそらく使うことは無いのかもしれない。

私は使わない機器を死蔵するのはどうも嫌なのだが、それでもこいつは捨てられずにいた。

ここで使わずにどこで使う!




じつはまだ試していないフォノイコライザーもあって、

例えばそれはグレイのパッシブのフォノイコライザー(電源も持たず、イコライジングのみを行い、増幅率の高いマイク入力で受ける)で、

そいつを試すときは、こいつをぜひ生かしてやろうと考えているのだが。。。



もしこのノイマンとノイマンの間の難しい役割をこなせるなら、このアンペックスだけで2種のフォノ入力が扱える。

私にとって、実に理想的じゃないか!




期待は膨らむ。

ほとんどフンフンと、はなうたまじりにセッテイングをこなして音をだす。

おお!

これぞプロ機の音。

何の過不足も無い。

決まりだな。



レコードをどんどん聞いていった。

何を聞いても問題ない。

問題ない。




あれ?



問題ないだけでいいのか?

by johannes30w | 2010-11-08 00:39 | オーディオと音楽
2010年 11月 06日

信頼

今までいろいろ探し求めてきたが、

結局これといったものに出会えなかったフォノイコライザー。

とうとう見つけた。

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これはノイマンのフォノイコライザー

こんなものが存在するのも知らなかった。

私が知っているノイマンのフォノイコライザーといえば、あのカッターレースに付いている(?)アンプに内蔵されたもの。

独立したこんな機器が存在するなんて思いもしなかった。

どういう使い方を想定されて作られているのかもわからないが、

独立しているだけに、電源部も当然内蔵されている。

ノイマンとしては、簡易型と考えているのかもしれないが、その作りに妥協は見られない。

当然真空管方式で、MCカートリッジ用の昇圧トランスも持っている。

しかもローインピーダンス用とハイインピーダンス用の2種類が配線の繋ぎなおしで使える。

前にある2種のノブは、右側が電源スイッチ、左側がステレオとモノラルの切り替え!





しかし、そんな内容で飛びついたわけではない。

そこにはやはりノイマンへの信頼がある。

私のようなオーディオ好きの端くれにもノイマンへの憧れは昔からあった。

他にも憧れたメーカーや機器はいろいろあるが、

ノイマンと、その機器はとうとういままで私の期待を裏切ることは全くなかった。

それどころか、使えば使うほどその全ての意味においてのクオリティに驚かされ、

憧れと信頼は強くなる一方だ。




このフォノイコライザーを見つけた時は、実は他のものに目をつけて考えていた時だったのだが、

やはりこっちを選んだ。

決め手は、ノイマンへの信頼。


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このフォノイコライザーは、2種の入力インピーダンスが選べると書いた。

時代から考えて、一つはオルトフォンSPU、一つはノイマンDSTあるいはEMTのTSD15あたりを想定しているだろう。

当然カートリッジの出力は違っており、SPUは小さい。

昇圧トランス無しに接続できるのは、非常に非常に嬉しいのだが、

SPUを使った場合、若干ゲインが小さい。

プリ以降のゲイン調整をやりなおしてもいいのだが、

チャンデバ以降のゲイン調整を一からやり直すことを考えるとぞっとする。

CDも相変わらず聴いているので、CDの出力並みには上げてやる必要がある。

よって、

我がゲイン調整システムであるノイマンスケルトンへ入力する前に、

一段ゲイン調整機構を入れてやる必要がある。




単体としての音の素晴らしさは、もはや他と比較する気にもなれない。




しかし、ここに来て、またまたプリプリ実験の再開となった。

候補は、

マランツ7T  クラークテクニクDN22グラフィックイコライザー   アンペックスAM-10ミキサー


決着は、意外と早くついた。

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by johannes30w | 2010-11-06 21:02 | オーディオと音楽
2010年 11月 04日

来た





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by johannes30w | 2010-11-04 10:10 | オーディオと音楽
2010年 11月 04日

まだ四番

四番、

よく思い出してみたら、

この曲は、私にはどうしても苦手な曲だった。



あの第四楽章が、どうしても納得できない。

天上の歌が、どうしてもわからないんだ。


ソプラノの独唱で歌われる天上の歌が、どうしても嫌。


うん、

理解できるとか、理解できないとかじゃなく、

どうしても嫌。



天上の音楽が嫌なのじゃなく、

あの音楽がわからない。



声楽が入った時点で純音楽とは言えないから、

勝手な解釈は必要なく、テキストを読み込めばいい。

そのテキストが、解らない。

どうしてそうなんだ?



キリスト教のこの感覚が、どうしても私にはなじめないのかもしれない。





今回も、実はあれからいろいろ聴いた。

演奏によって、全く新しいものが得られることがあるから。



以前、私はブルックナーの7番がどうしても納得できなかった。

素晴らしいことはもちろん解るし、何度も聴いて、嫌いじゃなかった。

でも納得できない部分がどうしてもあって、それが故に他の曲に比べて本当に好きだとは言い難かった。


ヨッフムが、晩年に来日し、コンセルトヘボウと7番を演奏した。

私は曲が7番だったから、行こうかどうしようか迷ったが、

もうヨッフムも聴けなくなるだろうと考え直して出かけた。



そのコンサートは、私が行ったあらゆるコンサートの中でも最も素晴らしいものの一つになったのだが、

そこで演奏された7番を聴いて、私はそれまでの不満が全て一気に氷解した。

びっくりした。

聴き惚れた


そのことがあって以降は、私は7番を本当に好きになった。





そんな体験があるもんだから、

いろいろ聴いてみた。

タイキョアンさんの持ってるCDを取り上げてまで聴いた。





やっぱり、嫌だ。

by johannes30w | 2010-11-04 00:37 | オーディオと音楽