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2008年 08月 18日

エロイカ

我々に残された時間は少ない

つまらない曲ばかり聴いてないで、正面から聴き直そう。




この曲は、正直に言えば、私にはずいぶん苦手な曲だった。

ベートーベンの他の交響曲が全て好きになっても、

何故だかこのエロイカだけは馴染めなかった。



それが、いつの間にか、最も好きな曲になっていた。



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このバーンスタイン=NYPのレコードを買ったのはいつの頃だったか。

「英雄」を買うんだと、意気込んで買ったのを覚えている。



意気揚々と買って帰り、一生懸命聴いて、ずいぶん疲れたことも覚えている。





話は変わるが、



CBS/SONYのこの時代のレコードの音は酷い。

あまりに酷い。

嫌がらせみたいに酷い。



これがステレオだよと言わんばかりに左右に思いっきり振り分けられた楽器群。

中抜けの典型だ。


カーカー、キャーキャーと癇に障る弦の音。


まったく酷い録音もあったもんだと思っていたが、

後にオリジナルのコロンビア盤を聴いて、この酷さがCBS/SONY特有のものである事が解った。

オリジナルは、もっと豊かで、空間表現にさえ優れる。




しかし、この酷いCBS/SONY盤で私は育った。

この酷い音をいかにして魅力的な音で再生するか。

左右にぶっちぎられた音像を、いかに中央に定位させるか。



この酷いレコードのおかげで、私のオーディオテクニックは進歩せざるを得なかったと言ってもいい。




最近、この演奏のリマスター盤が発売されている。


素晴らしい音だよ。


と言っても、オリジナルに近づいただけなのかもね。



しかし、CBS/SONY盤しか持っていない私にとっては、まったくありがたいことなんだ。








この演奏は、1966年のもの。

バーンスタインも若く、その才能は溢れきっている。

NYPも、70~80年代のぐうたらではなく、トスカニーニのNBCを思い出させるほどのキレとパワーとハーモニーを持っている。

ミトリプーロスの薫陶が生きていた時代。

うんうん、これが本当のNYPなんだよね。





この時代、

急速に名を上げてきたバーンスタイン=NYPの演奏に対し、ヨーロッパ至上主義者たちの中には、面白くない思いを感じる人も多くいたようだ。

アメリカナイズされたヨーロッパ音楽として、一種軽蔑の視線さえ送る者もいた。


しかしこの演奏をもう一度聴き直してみよう。


たしかにヨーロッパ的とは言いがたい。

それまでのベートーベンの作品としての既成概念とは少し異質なものを感じる人も少なくないだろう。

だがそこに流れる音楽の喜びは、それまでのどんな演奏より正直だ。

それまでのどんな演奏よりまっすぐだ。




後にアメリカ人たるバーンスタインは、ヨーロッパ音楽の総本山とも言えるウィーンフィルを指揮し、
ベートーベンの交響曲全集を作る。






ヨーロッパ至上主義者達が眉を顰めるに違いない演奏を紹介しておこうか


http://jp.youtube.com/watch?v=xjdAyy1xatA



いろいろ言いたくなる人は多いだろうが、

言いたいことは、私にだって良く解るが、

大好きな演奏だ。



・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・




いろいろなオーディオ装置を聴いていると、音楽のリズムが変化して聞こえることが良くある。


ゆっくりになったり、妙に早く感じたり。




先日も、夏の陣において、ある機器を繋いだとたん、音楽がゆったり流れ始めた。

お~、と感心していると、そんなことにはまったく興味が無いだろうと思われたODさんが、

この機器は音楽がゆっくり聞こえると言い出した。



言い出したのがODさんだったから、私はのけぞるほど驚いたのだが、

そんな感覚は、皆が持っているんだと解って、なんだか嬉しかった。



ゆったり鳴るのがいいのか、軽快に鳴るのがいいのかは、私自身ははっきりしないが、

たしかにそういうことは、よく感じる。




音楽演奏においても、そういうことはよくある。



単純に、テンポが速い遅いということではなく、

演奏時間を見てみると、非常に遅いはずなのに、聴いてみるとそう感じなかったり、その逆だったり。。。




私が体験した最も遅い演奏は、大阪フェスティバルホールで行われたチェリビダッケ指揮のブルックナー8番の演奏。

きちんと計ったわけではないが、ほとんど2時間が過ぎていた。

時計を見て驚いたのだが、聴いている間はそこまでスローペースであるとは感じていなかった。




ここにあるジュリーニのエロイカ。



この演奏も、遅い。

演奏時間を見てみると、唖然とする。

聴いてみても、チェリビダッケを上回る遅さで曲が始まる。



だが、

遅くないんだ。



とうとうと流れる音楽がそこにある。




楽譜にはテンポの指定がある。

演奏家は、そのリズム指定を参考に演奏する。


しかし本来は、

テンポがあって、そのテンポに乗って音楽があるわけじゃなく、

まず存在するのは音楽。

その音楽の流れを数えてみれば、テンポのようなものがある。



あくまで音楽の流れが先ずは存在する。



・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・



指揮者バルビローリは、その指揮するオーケストラに向かって、

「音符の一つ一つ、音の一つ一つを愛してください」と、繰り返し繰り返し言ったという



その逸話を知った若い頃は、そうだろうなと、大して強い感想は持たなかった。

しかし、

今、


感性も擦り切れているに違いない現在、


バルビローリが言いたかったことが、心の底から解る。





そういう意味で、ジュリーニはスカラ座を選んだに違いないんだ。





合奏の最大の形態として、オーケストラというものがある。

合奏の規模が大きくなればなるほど、個々の演奏家が占める割合は当然低くなり、

よって細部に目を届かせることがどうしても難しくなる。


さらに、交響曲などという楽曲の形態は、その曲の、巨大な建築物のような構成をいかに再現するかがその演奏の最大の目的となってしまう。


ますます細部はおろそかになりがちだ。



おろそかと言っては言い過ぎになるのかもしれない。



確かに強力な指導力をもって、ゆるぎない構成美を見せてくれる演奏も多い。

オーケストラを一つの楽器のように、自由自在に操るような演奏もある。



しかし、

「神は細部に宿る」と誰かが言ったとおり、

作曲家が一つ一つの音符、音を小編成の曲に比べてその比重を小さく書いているはずはないんだ。



独奏楽器の楽曲の巨大な集合体であると交響曲を捉えるならば、

巨大な全体像の再現だけで、その演奏がいいはずがない。




バルビローリの言葉の意味はここにある。



頭ではなく、実感して初めて理解できる言葉だ。








音楽には歌が必要だ。

音を出せば、楽譜どおりの音が出れば、音楽になると考えるのは、音楽家ではなく学者。


音楽は、どんな小さなフレーズにも、どんなちっぽけな音にも、計り知れないニュアンスと表情が無ければいけない。

音楽ってそういうもんだ。



イタリア人の演奏は、総じてよく歌う。

オーケストラであってもそうだ。


ドイツやアメリカや、ましてロシアのオーケストラとは比べられない。





どんなに小さな音であっても、そこに豊かなニュアンスが込められている。





これが、ジュリーニがスカラ座を選んだ理由なんだ。





思い返してみれば、私にとってかけがえの無い演奏だったジュリーニ・シカゴ響のマーラーの9番。

あの演奏、その表情を押し殺したような演奏だった。

もちろん曲によって、あえて押し殺した表情を保つ必要があるには違いないし、

あのレコードの存在は、私にとって非常に重要であることには何の変わりもありはしないが。











豊かなニュアンスを含んだ一音一音、その巨大な集合体としての交響曲がここにはある。



その構成美に注目しているだけではもはやだめだ。



一音一音を聞き逃さず、フレーズフレーズのニュアンスを聞き逃さず、全体像を感じ、



聴こう




類い稀なる演奏



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無限のニュアンスを含んだ一つの音。


そのちっぽけな音の一つ一つが集まり、積み重なり、巨大な音楽を作り出す。



そして音楽は、脈動する。



リズムが生まれる。








そう、改めて実感できた時、疑問が氷解する。






いろいろな機器を聴いていくと、機種によって音楽のテンポが変化して聞こえる。

それは、



音だよね。



機器によって、音が変わる。

一音一音が持つ雰囲気が変わる。


その一音一音が、音楽を作っていく。



そして音楽がリズムを生むのであれば、

リズムは機器によって変化して聞こえて当然だね。







音楽を聴きたければ、

オーディオをおろそかに出来ない。




悲しいような、

嬉しいような。
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by johannes30w | 2008-08-18 02:01 | オーディオと音楽


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